Feb 05, 2009

不動産投資が流行しています。

不動産投資を中古ワンルームで始まるサラリーマンが多い。この理由は何だろうか。個人的には社会保険の未来が不透明で、不動産投資のオナニーしているのではないかと考えるのである。今まで働いてあげれば、そこそこの年金を受けることができた。それが今後はなくなりそうなのだ。他人を目標とすることができないということだ。
マンションの管理は、当然リスクもある。それは最初から範囲が一つに固まってしまうのだ。しかしその反面、自分で決定したことがそのまま反映さというのは長所だ。これらの点の中古ワンルームマンション投資にはないアパート経営の醍醐味と言えるのではないかと思うのだ。
 「どうも最近、話が通じないような気がして」

 「戦争の語り部」として約30年間、宮城県内を中心に自らの戦争体験を語り続けている元教師の平塚矩正(のりまさ)さん(84)=仙台市泉区=は5、6年前から、聴衆に違和感を覚えることが多くなっていた。

 昭和20年、平塚さんは陸軍船舶特別幹部候補生の第2期生。水上特攻隊として広島・江田島で訓練を重ねていた。海を挟んで約12キロしか離れていない広島に原爆が投下された8月6日、爆心地近くまで入った。約1週間救助活動を行い、その惨状を目の当たりにし、自らも放射線を浴びた。

 その体験に自身で調べたデータなども加えて講演するのだが、最近は「ヒバク」の意味を知らない人が増え、B29と聞くと米軍の大型爆撃機ではなく鉛筆の芯の話だと思う子供もいる。「知らないのか。仕方ないな」。思わず笑って説明しながらも、寂しさがこみ上げた。数ページしかない教科書の記述では、当時の空気や人の苦しみは伝わらない。「鎮魂の灯籠流しの意味も、込められた思いも知らない人が増えていく。あれだけの戦争だったのに」

 平塚さんは東日本大震災の被災地に3度足を運んでいる。「この震災も、代が替われば忘れられるのかな」。不安がよぎることもある。

 そんなとき、ある避難所で人々が歌う「故郷(ふるさと)」に心を揺さぶられた。出陣後は生きて帰れない特攻隊員だったころ、兵舎でこっそり数人の仲間と、この歌を歌ったことを思いだしたのだ。亡き友人や家族、故郷への思いが被災者の現状と結びつき、涙がこぼれた。

 「戦争と災害の差はあっても、多くの人が犠牲となった悲しみや苦しみは同じなんだ」。時代を超えて結びつくものがある、そんな不思議さを感じたという。

 3月11日。妻と入居している介護型複合ホームを車で出発した平塚さんは、突然、車ごと前後左右に揺すぶられるような異様な感覚に襲われた。「地震か」。思わず急ブレーキを踏み、体験したことがないような不安を感じると、妻の無事を確認するため、ホームに向かった。

 建物は無事だったが、妻はテーブルの下にうずくまり、震えている。その後、テレビに映った津波が沿岸部の市街地を襲う様子に目がくぎ付けになった。生まれ育った宮城県塩釜市も津波が襲っていた。

 「この目に焼き付けておきたい」。3日後には、大津波の甚大な被害を受けた沿岸部へと車を走らせていた。倒壊した家屋、ひしゃげた橋、倒れた電信柱、もつれる電線…。人もたくさん亡くなっていった。運転席から見渡しながら、「あのときと似ている」と思った。それは、原爆投下から数時間しか経過していない広島で見た光景だった。

 ■忘れぬ努力が慰霊と鎮魂に

 その朝、平塚さんが東の上空を広島市に向かって飛んでいく1機の飛行機に気づいたのは、特攻に使う舟艇整備のため桟橋にいたときだった。

 突然、目の前に太陽が現れたような強烈な閃光(せんこう)が全身を襲った。顔の皮膚がチカチカするほどの光。原爆が炸裂(さくれつ)した瞬間だった。広島市の空では、黒雲に包まれた太陽のような火の玉が、黄色くなったり、赤くなったりしていた。「巨大なきのこ雲がうわあーっと広がり、その中で真っ赤な火がぐるぐると渦巻いているのが見えた」

 夕方、広島に駆けつけた平塚さんたちは、爆心地から約1キロ付近の地点で活動を始めた。2日間は生存者の救助。3日目から死体を焼いたり、がれきを寄せて車両を通すための道路の拡張、整備を行ったりした。

 町は焼けこげた死体と被爆者であふれていた。水を求めて川に飛び込んだものの、はい上がれずに溺れる人々を土手に運び上げるだけが精いっぱいだった。薬もなく診療もできず、翌朝にはみんな死んでいった。

 何人もの被爆者たちが腕や足にしがみついた。子供を逆さまに抱きかかえたまま食べ物を求める母親もいた。みな裸で皮膚は赤くむけ、焦げたり眼球が飛び出したりしていた。「助けようがねえ。自分も怖くて、でもかわいそうで…どうしようもなかった」。作業は約1週間続いた。がれきの山と人々の声は、今も頭にこびりついている。

 そして、知らぬ間に自身の体にも放射能が浸潤していた。

                 × × ×

 終戦後、塩釜市に戻り、東北大法学部を卒業。仕事がなく、ヤミ屋で魚油(ぎょゆ)を売って暮らした。「広島の放射能がうつる。あっちへ行け」。ヤミ屋仲間にはのけ者にされ、追いやられた。

 差別と原爆症への不安に悩まされながら、友人の紹介で宮城県内の小中高校で教壇に立つことになった。昭和30年ごろには、白血病を発症しかけたこともあった。被爆者手帳を取得したのは49年5月。今は前立腺がんと闘っている。

 震災の後、福島第1原発事故に関連して、「被曝(ひばく)」や、その影響の大きさを表すシーベルト、量を表すベクレルなどの用語が日常会話に頻繁に登場するようになった。人々が基準値内の微量な放射性物質におびえるようすを、平塚さんは複雑な思いで見つめていた。

 「おおげさすぎる。整理されない情報だけでは、不安をあおるだけだ」。一方で、どれくらいの期間と量の放射能が人体にどう影響するのか、深く検証されないまま、技術が発電に応用されてきたことに違和感を抱く。「殺戮(さつりく)兵器と、平和利用の原発は存在意義が違うのはわかるが、取り扱う技術の危険性は変わらないはずだ。広島の悲劇は何だったんだ、私たちはあれから、何を学んだんだ、とやりきれない気分になる」

 平塚さんが訪れた被災地ではボランティアや自衛隊が、がれきの中で汗を流していた。年齢的にも体力的にも、参加することのできない平塚さんのもどかしさは募るばかりだ。せめて、今後の講演のさい、一言添えるつもりでいる。

 「日本はかつて、悲しみと絶望のふちから立ち上がってきた。今度の震災も同じなんだということを思い出してほしい」。忘れぬ努力が亡き人への慰霊と鎮魂となり、前に進む力になることを祈っている。(渡辺陽子)

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